この時期にしては珍しく、雲一つない晴天。道端に積もっていた雪が溶けかかり、アスファルトは常に濡れた状態になっている。午前中の講義を聞き終えた春斗は、家に帰って食事を済ませると幽体になり、千佳が通っている久我西女子高校に辿り着いていた。街中にある高校は運動場が狭く、校舎も一つだけだ。実は一度、この高校に幽体となって忍び込んだ事がある。その時は専ら、女子更衣室やトイレに忍び込んでいたので千佳には会わなかった。もしその時に会っていたら、どうなっていただろう?

春斗はゆっくりと校舎の屋上に下りると、そのまま幽体を減り込ませ、教室の天井から顔を覗かせた。

三十人ほどの女子生徒が授業を受けている様子が伺える。偏差値の高い女子高のせいか、生徒達は真面目に授業を受けていた。

(この教室とは違うか)

 廊下に出ると、3年B組と書かれている。そのまま廊下を漂い、D組の扉をすり抜けると、窓際の後ろから二番目の席に、ストレートの長い髪をした女子生徒を見つけた。彼女は白板に書かれている文字をノートに写しながら、時折窓の外を気にしていた。

(いたぞ。さて、どうしようか……。彼女は俺の幽体が見えるから、前に行けば気づくかな)

 そう思い、廊下側から少しずつ前に移動すると、教室の前の扉辺りで彼女と視線が合った。

「あっ!」

 不意に声を上げた彼女は、慌てて両手で口を覆った。

「どうしたんですか? 芦川さん」と、先生に問い掛けられた彼女は、周りにいる生徒の視線に頬を赤らめながら、「な、何でもありません」と答えた。

「千佳、寝ぼけていたならそう言えば?」と、隣の生徒に言われ、皆にクスクスと笑われる。

「はい、もういいから静かにしなさい。授業を続けますよ」

 先生の声で、また教室が静かになった。千佳は真っ赤になった頬を掌で冷やしながら、幽体の春斗に視線を送り、軽く頷いた。

(こっちに来いって事か?)

 そう思いながらふわりと近づくと、彼女はノートに書いた文字を指差した。

【私の中に入れますか?】と書かれている。

 入ってくれと言われても、春斗が憑依出来るのは由香利だけだ。躊躇していると、また彼女がノートに【一度、試してみてください】と書いた。

(そう言われてもなぁ……)

 彼女が春斗を見つめている。きっと、入ろうとしてもすり抜けるだけだ。とりあえず彼女を見ながら頷いた春斗は、千佳の背後に立つと、そのまま彼女の背中に幽体を重ねていった。

(あ、あれ?)

 まるで、由香利の肉体に憑依する感覚だ。彼の幽体は、千佳の体を通り抜ける事無く、消えていった。

【井野崎さん。入れました……よね?】

 右手が勝手に動き、ノートに文字を書いてゆく。その丸い文字を、千佳の目を通して見ていた。

(こ、これって……彼女に憑依出来たのかっ。由香利さん以外の人に憑依出来るなんて!)

 驚いていると、彼女がまたノートに文字を書き始めた。

【私も色々な意味ですごく不安でしたけど。でも、同じ能力を持っているから出来るんじゃないかと思ってました。自分の体に別の人の魂があるなんて初めてです。えっと……。あの、伊野崎さんが私の体を使えるか試してみませんか?】

(えっ?)

 彼女は書き終えると、シャープペンシルを置いて、両手をプリーツスカートの上に乗せた。そして、深く深呼吸をした後、両手を握りしめた。

「…………」

 時間にしてほんの数秒。無言のまま俯き、赤いリボンが付いた紺色のブレザーを見つめる。少し控えめな胸の下、同じ紺色のプリーツスカートに乗せていた手を引き寄せ、何度か開いたり閉じたりする。細くて白い指が滑らかに動くと、鼓動が一気に高鳴った。

「どうしたの?」

 隣の女子生徒が囁いた。

「あっ……。えっと……な、何でもない」

 慌てて机に両手を添え、ノートを見つめた。

(井野崎さん、聞こえますか? 聞こえたらノートに何か書いて下さい)

 頭の中で、千佳の声が聞こえる。春斗は彼女の手でシャープペンシルを持つと、【聞こえる】と書いた。

 今まで彼女が書いていた字体とは明らかに違う、角ばった文字だ。

(良かった。ここまでは順調ですね。じゃあ、次は私の記憶を見せますね。私と井野崎さんの魂を少し融合させます。井野崎さんも、この感覚が分かりますよね)

 由香利の肉体に憑依した時と同じだ。互いの魂が触れ合い、部分的に混ざり合う。しかし、由香利の時とは少し違い、千佳に制御されている感じがした。

(私として振舞うために必要な最低限の記憶だけを見せますね)

 その言葉の後、春斗の魂に彼女の情報が流れ込んできた。彼女の話し方や友達の事。住んでいる家の場所などが提供された。

(どうです井野崎さん。私の事、分かりました?)

「あ、ああ……」

 春斗は小さく頷くと、彼女の口で深呼吸した。

(それじゃ、しばらく伊野崎さんが私の体を使ってもいいですよ。私、じっとしていますから)

「い、いいのか?」

 小さく呟くと、隣の生徒が「ねえ芦川さん、大丈夫?」と顔を覗かせた。

「あ……うん。大丈夫だよ田川さん。ちょっと考え事をしてただけだから。ごめんね」

 早速、千佳から得た記憶を使い、彼女の口調を真似すると、ニコリと微笑んだ。

 誰にも気づかれないまま、授業が進んでゆく。ノートに書く文字は、千佳の癖がある可愛らしい丸みを帯びた字体になっていた。親指を少し反るシャープペンシルの持ち方も、彼女のそれだった。女子高生の耳を使って聞く先生の声。そして女子高ならではの教室に漂うフレグランスの香り。

 まさか、女子高生に憑依して授業を受けられるなんて思ってもいなかった春斗は、時折、スカートに包まれた太ももを擦り合わせたり、ブレザーの胸元を気にしながら【芦川 千佳】として、つかの間の女子高校生ライフを楽しんだ――。

 

 

「ねえ千佳。今日はまっすぐ帰る?」

 放課後になると、美原 翔子が話し掛けてきた。その後ろに、もう一人の女子高生。ちょうど神社で千佳と一緒に歩いていた二人だ。

「あ、うん。ちょっと用事があるの。ごめんね」

「そうなんだ。じゃあ私達はティーズティエスで服を見てから帰るね。ほら、この前セールで売ってた服。バイト代が入ったから、まだ売ってたら買おうかなって」

「ああ、あの白いパーカーね。私も一緒に行きたいけど、また今度見せてよ」

「うん。じゃあまた明日」

(すごいですね、井野崎さん。二人とも私が伊野崎さんに操られている事に気づいていませんよ)

「そりゃ、君の仕草を見せてもらってるから。これなら君の親にもバレないかな」

 帰り支度を整えた千佳の体が、春斗に操られながら廊下を歩き、誰もいない屋上へと移動する。夕日が傾く中、周りを見渡し人影がない事を確認すると、足元に鞄を置き、グランドが見えるフェンスに凭れ掛かった。

「いや、ほんとに驚いたよ。俺、由香利さんにしか憑依出来ないと思っていたから。すごい体験だよ」

(由香利さんって、喫茶店で話していた義理のお姉さんの名前ですよね。私も驚いています。自分の体が勝手に動いて、友達と話をして……。伊野崎さん、男性なのにエッチな事はしなかったんですね。女性の体に興味があると思っていましたよ。トイレに行ったときは、制服を脱ぐかと思いました)

「そりゃ、興味はあるけどさ。流石にこうして本人が一緒にいる状態じゃ無理だろ。それに、変な事していたら周りの生徒から怪しまれるだろうし」

(うふっ。まるで私がいなければエッチな事をするように聞こえますよっ。でも、こんな事が出来るなんて、これってきっと運命なんですよ)

 その言葉を聞き、由香利を思い出した。彼女との出会いは運命だと思っている。もしかして、芦川 千佳も運命の人だろうかとも思ったが、由香利の時に感じた愛情のある、互いを求めあうような魂の触れ合いとは異なり、上手く言葉には出来ないが、強いて言えば「事務的な」雰囲気があった。

(ねえ井野崎さん。今、井野崎さんの体はどうなっているんですか?)

 不意に聞かれ、「ああ、俺の部屋に置いてきたよ。ベッドに寝かせてる」と答えた。

 千佳は無言で暫く考えた後、躊躇いながら(あ、あの……もし良かったら一日だけ体を交換してみませんか?)と、言い出した。