このお話トランスセクシャルではなく、時間停止となっておりますのでご興味のある方のみご覧下さいませ〜。



 静寂という言葉が最も当てはまる空間だと思った。静まり返った夜中の部屋だって必ず遠くで「ざわめき」が聞えていたし、耳を塞げば体の内側から血液の流れる様な音が絶えず聞えていた。
 そんなノイズを一切感じない空間に僕はいた。全ての音がシャットアウトされた空間にいると、息苦しい感じがする。大きく深呼吸すると、僕が呼吸している音だけが聞える。僕が発する音だけ、そして僕の周りにだけ音が存在した。
 雲ひとつ無い、抜けるような青空が広がる金曜日の、一時間目が始まった直後。野原先生は教卓を前に教科書を開き、顔を上げて僕達を見ていた。筆箱からシャーペンを出そうとしている西野君。教科書をペラペラと捲ろうとしている大木さん。隣同士で会話をしていた吉住君と稗田君。みんな、映像の一コマの様に止まっていた。
 僕はもう一度深呼吸をすると、右手に持っている懐中時計を眺めた。一世紀くらいは経っていそうな年代モノ。周囲の金属は剥げ落ちて、表面のガラスは随分と曇り、斜めに罅(ひび)が入っている。こんなに古びた懐中時計でも、さっきまではしっかりと秒針を刻んで動いていたんだ。
 そう、懐中時計の上に付いているリューズを押すまでは。


 この時計を手に入れたのは、昨日、爺ちゃんの家にある倉を掃除した時だった。湿気のせいか、腐りかけた小さな木箱を開くと、埃を被った灰色の綿に包まれた懐中時計が入っていた。僕はそれを見た瞬間、奇妙に感じつつも何故か鼓動が高ぶった。遥か昔から木箱の中に眠っていたはずの懐中時計が、しっかりと秒針を刻んでいる。普通なら考えられない事だ。
 その夜、僕はこっそりと家に持ち帰り、自分の部屋でしげしげと眺めた。電池が入るフタは無く、ネジを巻き上げるリューズが一つ付いているだけだ。試しに回してみたけど、空回りしている感じがしていつまでも回す事が出来る。それでも秒針は止まることなく動き続けているなんて、絶対に有り得ないと思った。
 そしてリューズを押し込んだ瞬間、今まで聞えていたざわめきが全て消えた。あまりの静寂に耳鳴りを感じる。何が起こったのか分からなかったけど、今まで動いていた懐中時計の秒針が止まっていることに気付いた。リューズを引っ張ると秒針が動き出し、ざわめきが戻る。
 僕はすぐに理解し、頗る興奮した。このリューズを押し、秒針が止まっている間は現実世界の時も止まるのだと。架空の世界にしか存在しないであろう「時間を止める事が出来る時計」が僕の手元にあるなんて信じられない。
 その効果を確認するため、父さんがソファーでテレビを見ている様子を眺めつつ、リューズを押す。すると、またざわめきが消え秒針が止まった。それと同時にテレビ画面の映像も止まり、父さんも微動だにしなくなった。奥のキッチンにいた母さんも、冷蔵庫から何かを取り出そうと前屈みになり、扉を開けている状態で固まっていた。そんな体勢を続けていたら腰痛になりそうな気がしたけど、母さんは表情一つ変えず、冷蔵庫の中を見つめていた。
 その後、もう一度リューズを引っ張ると時が動き始めた。

「あら、茂男。いつの間にそこにいたの?」

 母さんが少し驚いた様子で僕に話し掛けてくる。

「今来たところだけど。ジュースを飲もうと思って」
「そう。全然気付かなかったわ」

 その言葉に、内心ニヤリと笑った。時が完全に止まったのだと確信した瞬間だった。そして僕は、自分の心に欲望が渦巻き始めた事に気付いた。この懐中時計さえあれば、僕だけが動いている世界を作り出すことが出来るんだ。頭に過ぎったのは、片想いのクラスメイト、有岡さんの事。容姿端麗で明るい性格の彼女は男子生徒からとても人気があって、平凡な僕なんかが近寄る隙は無い。
 この懐中時計があれば、彼女を僕だけのものに出来るんだ。


 そして今、教室の中で僕だけが動き回れる状態になった。試しに、隣に座っている平松君の肩を叩いてみたけど、彼はマネキンの様に固まっていて無反応だった。開いた瞳をじっと見つめても、瞬き一つしない。目が乾くんじゃないかと思うけど、きっと時が止まっているから大丈夫なんだろう。
 静まり返った教室で椅子から立ち上がると、脚がガタガタと床に擦れる音がした。でも、誰も僕を見ようとはせず、それぞれが今の状態を継続していた。鼓動が高鳴り、息が苦しい。一番後ろの、廊下側から二列目の机に有岡さんが座っている。僕の机からは随分と離れているけど、遠めでも彼女が野原先生の顔を見ている事が分かった。
 ゆっくりと有岡さんが座っている席に近づき、彼女の横に立つ。それだけでも幸せな気分になった。セミロングの茶色いストレートの髪が目の前にある。僕はその場にしゃがむと、机に両手を添えて顎を乗せ、斜め下から彼女の表情を見上げた。透き通るような肌。二重の瞳にピンクの唇が大人びて見えた。白いセーラー服の襟元を飾る赤いスカーフ。そして、有岡さんの見事なスタイルを強調する二つの胸が、白い生地を盛り上げていた。

「時間が止まっていても、胸を触ったら驚くかな?」

 さっき、平松君の肩を叩いた時に動かない事は確認したから大丈夫なのは分かっている。でも、そう呟きたかった。
 僕はドキドキしながら、机上にある彼女の腕にそっと触れてみた。滑らで柔らかい腕から温かさを感じ、彼女が生きている事を実感した。そのまま腕に手を添えながら有岡さんの顔を見たけど、彼女の表情は全く変わらなかった。試しに、彼女の腕を少し抓ってみたけど、それでも眉一つ動かない。

「……すごい。ほんとにマネキンになったみたいだ」

 本当は痛かったかもしれないので、抓ったところを優しく摩った僕は、もう一度立ち上がって彼女を見下ろした。
 いつまで見ていても見飽きない美しさだ。セミロングの髪に鼻を近づけると、リンスのいい香りがする。その髪を撫でるように触ると、一本一本がとてもサラサラしていて気持ちよかった。周りにいる友達を見ても、僕が有岡さんの髪を弄っている事に気付かない。いや、完全に無視されていた。
 先生だって僕を注意しない。まさにやりたい放題だと思った。