「ただいま」
「おかえり芳郎。ご飯は食べたの?」
「食べてない。今日は何?」
「トンカツだけど」
「じゃあ食う」
 芳郎はキッチンから聞こえた母、那津子に告げると二階にある自分の部屋に上がった。
 制服を脱ぎ捨て、Tシャツと短パン姿になるとベッドに身を投げる。
「はぁ〜。相変わらずあいつは苛め甲斐のある奴だな。これで今月は金に不自由することはないか」
 財布を取り出し、万札が二枚入っていることを確かめると、勉強机の上に投げた。この二万円はクラスメイトの岡原から巻き上げた金だ。岡原は中学からの付き合いで、高校になっても同じように進学し、芳郎に苛められている。金を巻き上げられる事はしばしばで、ムカついた時の腹癒せに殴られたり、物を隠されたりと良からぬ事をされ続けていた。
 それでも意志の弱い岡原は、歪んだ眼鏡を掛けなおすだけで親にも先生にも言えないのだ。そんな彼の性格が分かっている芳郎は、連れと一緒に彼を苛めることがある種の生きがいになっていた。
「ああっ!」
「ん?」
 一階から那津子の叫びにも似た声が聞こえた。何事かと思ったが、ゴキブリでも出たのだろう。前にも同じような事があったため、芳郎は気にせずに漫画を読んでいた。高校生にもなると、極度に母親との関わりは持ちたくないという気持ちが働くのだろう。
 その後は何事も無く平穏に時が流れ、十五分ほどすると「芳郎、ご飯が出来たわよ」と那津子が声を掛けた。
「ああ」
 途中まで読んでいた漫画をベッドに伏せ、一階に下りる。トンカツを揚げた油の匂いがキッチンに漂っており、食欲をそそった。
「何、さっきの声」
母親憑依1
「ああ、何でもないの」
 少し気になっていた芳郎が問いかけると、那津子は別段気にする様子も無く答えた。
 いつもの様に椅子に座った芳郎は、吸い物のお椀を手に取ると一口すすった。
「うわっ! 何だよこれ」
「どうしたの?」
「塩辛っ! 塩を入れすぎなんじゃないか」
 慌てて水を飲んだ芳郎が那津子を見ると、彼女は「プププ」と噴出し笑っている。
「何だよそれ」
「えっ。ううん、何でもないの。芳郎の驚いた顔がおかしくて。あははは」
「バカにしてるのか」
「そうじゃないの。はぁ、はぁ。おかしいわね。私も飲んでみるわ」
 那津子は吸い物の入った自分のお椀を口にし、美味しそうに飲んだ。
「おかしいわね。私の吸い物は美味しいのに」
「……舌がおかしくなったんじゃねえの?」
 吐き捨てるように声を荒げた彼は、トンカツにソースを掛けて食べ始めた。
「……何だよこれ。生じゃないのか?」
「レアが美味しいのよ、気にしないで食べて。くくく……」
 不審な顔つきでトンカツを見ている芳郎を眺めている那津子は、今にも噴出しそうな表情で口にを添えていた。
 豚肉を生で食べるなんて初めての行為だ。新鮮な豚肉や、専門店ならば料理として成立するのかもしれないが、いつも安い冷凍モノの豚肉を使っている事を知っている芳郎は、本能的に食べてはいけないと感じたようだ。
「……俺、いらない」
「どうして? 折角母さんが作ったのに」
「それじゃ、母さんのトンカツと交換してくれよ」
「それは嫌よ。あんたのトンカツ、ソースが掛かってるじゃない。やっぱりトンカツにはマヨネーズだからね」
「マヨネーズ? いつもマヨネーズなんて掛けてねえだろ」
「そうだけど、マヨネーズが一番なのよ」
 那津子はマヨネーズを手に取ると、徐にトンカツに掛け始めた。ナイフで一面に広げた後、フォークを突き刺して食べている。見ると、中までしっかりと火が通っている。
「俺のだけ生かよ」
「ええ? そんな事無いわよ。同じように揚げたんだからね」
「……今日の母さん、おかしいんじゃね?」
「そう見える?」
「……別に。俺、風呂に入ってくる」
「あ、そう」
 芳郎がキッチンを出てゆくと、那津子は腹を抱えて笑った。
「あはははは。あの顔、たまらないよ。折角ならもうちょっと食べてくれれば面白かったのに。あの様子じゃ、僕の事を全然疑ってなかったな。それにしても、記憶が読めるって便利だよ。おばさんの真似、完璧に出来るし。これまで僕にしてきた苛めは、こんなもんじゃないからね。覚悟してなよ、水近芳郎」
 那津子は不敵な笑みを浮かべると手早く夕食を済ませ、芳郎が残した残飯をゴミ箱に投げ捨てた。