――そして次の日。
会社での二人は、あくまでいつもどおりだった。
結婚をすると言っていた園口との話は、まだ誰の口からも聞こえない。
「課長、この資料に捺印してもらえますか」
「ああ……」
「どうしたんですか?顔色が悪いですけど」
「……いや。なんでもない」
捺印を求めた志乃理は、心配そうな表情で猪田を見つめていた。
その裏ではどんな顔をしているのだろうか?
猪田はそう思いながら資料に捺印した。
今日は仕事に集中できない。
仕事が進まない。
席に戻り、その様子を伺っていた志乃理はいつもと同じようにキーボードを叩いていた――。
会社での二人は、あくまでいつもどおりだった。
結婚をすると言っていた園口との話は、まだ誰の口からも聞こえない。
「課長、この資料に捺印してもらえますか」
「ああ……」
「どうしたんですか?顔色が悪いですけど」
「……いや。なんでもない」
捺印を求めた志乃理は、心配そうな表情で猪田を見つめていた。
その裏ではどんな顔をしているのだろうか?
猪田はそう思いながら資料に捺印した。
今日は仕事に集中できない。
仕事が進まない。
席に戻り、その様子を伺っていた志乃理はいつもと同じようにキーボードを叩いていた――。
「ただいま」
「お帰りなさい。今日は早かったのね」
「ああ、仕事に集中できなくてな。残ってやったところで、さほど進まないだろうから」
「そうなの。大変ね」
「……まあな」
一時間だけ残業をした猪田は、寄り道もせずにまっすぐ家に帰った。
普段よりも随分と早い帰宅だ。
「お帰りなさい、お父さん」
「ああ、ただいま。由菜、昨日は……」
「いいよ別に。来月バイト代が入ってから買うから」
「すまなかったな、怒鳴ったりして。父さん、ちょっと会社の事で色々あってな」
「ふ〜ん、そうなんだ。会社、辞めるなんて言わないでよ。私達、食べていけなくなるからね」
由菜は笑いながら自分の部屋に戻っていった。
猪田は由菜の笑顔を見てホッとしたのか、疲れた頬が緩んだ。
「今日は先にご飯食べる?あなた、あまり早く帰ってこないから三人で食べるのは久しぶりでしょ」
「……そうだな。先に食べるか」
「それじゃ、準備するわね」
「ああ」
キッチンに戻る規子の後姿をしばし眺めた猪田は、スーツの上着と鞄を寝室に仕舞うとリビングのソファーに腰掛けた。
「今日のおかずは?」
「焼き魚よ」
「そうか。由菜はあまり好きじゃなかったな」
「ちゃんと魚も食べさせないと」
「そうだな」
しばらくすると、キッチンテーブルの上に夕食が並んだ。
「由菜、ご飯が出来たわよ」
規子の声に、由菜が部屋から出てきた。
「今日のご飯、何?」
「焼き魚よ」
「そうなんだ」
「残さないで食べてよ。いつも一口しか食べないんだから」
「……うん、大丈夫」
由菜は皿の上でこんがりと焼けた魚を見て、いつものように嫌な顔はせず椅子に座った。
「由菜。そこはお父さんの席でしょ」
「あ、そっか。ごめんねお父さん」
「いや、構わないさ。箸だけ交換してくれれば」
猪田は由菜の前にある黒い箸を取ると、いつも由菜が使っている白い箸と交換した。
「じゃあ食べようか」
「いただきます」
「いただきます」
三人が席に座り、夕食を食べ始めた。
「今日の学校はどうだった?」
「えっ。うん、別に」
「面白い事とか無かったのか?」
「そうだね。特に無かったよ」
「そうか」
久しぶりに三人揃った夕食だったが、あまり会話は進まなかった。
最近は仕事で遅くなることが多かったので、家族に溝が出来てしまったのかもしれない。
そんな風に思った。
「携帯、買い換えたいのか?」
「え?」
「昨日言ってた話だよ」
「えっと……。携帯って?」
「……お前が買い換えたいって言ってたんだろ」
「そ、そうだっけ?ははは……」
「それに……」
猪田は由菜から視線を落とした。
「お前、魚が食べられるようになったのか?」
由菜の皿に乗っていた魚が殆ど骨だけになっているのを見た猪田は、妙な胸騒ぎを覚えた。
「あ、うん。今日の魚は美味しかったよ、お母さん」
「そう。いつもそれくらい綺麗に食べてくれたらね」
「……そうだね。でもそれはお父さん次第かな?」
「どういうこと?」
「さあ。ねえ、お父さんっ!」
軽くウィンクして笑いかけてきた由菜と視線が合った瞬間、猪田の顔から血の気が引いた。
目の前にいる由菜は――。
「お、お父さん次第って、どういう事か分からないな」
「お父さんが私との約束を守ってくれないなら……クスッ、このままの私でいてあげるって事」
「このままの私でいてあげるって?」
「毎日焼き魚が出ても、全部食べるよ。私の言っている意味、分かるでしょ」
「…………」
まさか――ずっと由菜の体を乗っ取るつもりなのか?
しかし、あの薬は五時間程度しか憑依出来ないはず。
「お父さんの考えている事を当ててあげようか?心配しなくてもいいよ。幾らでも手に入るから」
「なっ……」
「折角三人揃っているんだから、全部話しちゃえば?」
「話すって?何か秘密にしていることがあるの?」
規子が二人の話に割り込んできた。
「い、いや。別に何も無いんだ」
「ふ〜ん、そうなんだ。お父さん、何も話すこと無いんだ」
由菜がわざとらしく下腹部を撫でている。
「由菜、お腹が痛いの?」
その仕草を見て、規子がたずねた。
「ううん、ねえお母さん。実はね、私……妊娠しちゃったんだ」
「えっ!?」
いきなりの告白に、規子は持っていた箸を落としてしまった。
「……な〜んてね!冗談よ、冗談」
「ゆ、由菜っ!冗談にもほどがあるわよっ」
「ごめんね。ちょっとお父さんを驚かせようと思って」
可愛らしく舌を出した由菜を見て、猪田の額から嫌な汗が滲み出た。
もしかしたら、本当に妊娠しているのか?
妊娠させられてしまったのか?
「ゆ、由菜。お前……本当に冗談だよな」
「……そうだね、冗談だよ。今は」
「…………」
「だって、私もいつか好きな人と結婚したら子供が欲しいもん」
「もう。二度とそんな冗談は言わないで。分かった?」
「うん。分かったよお母さん」
猪田は気が気でなかった。
いつ由菜を妊娠させられるか分からない。
あまりにリスクが大きすぎる。
もう告白するしかない。
しかし――。
「……ねえってば!」
「……えっ?」
「もうっ!さっきから何度も呼んでるのに」
「あ、ああ。すまない。考え事をしていたんだ。な、何だ?」
「食事のときくらい考え事はやめてよね。私、先にお風呂に入るから」
「そ、そうか。別に構わないよ」
「じゃ、ご馳走様」
「ご馳走様」
由菜は食器を流し台に片付けると、自分の部屋に戻っていった。
「あなた。私に何か隠し事をしているの?」
「いや、何もしていないよ」
「でも、由菜が……」
「ああ……そうだな。実は携帯電話を買い換える金を貸してやろうと思って」
「……そうなの。それだけ?」
「そうだ。それだけだ」
「……それならいいんだけど。隠し事は嫌よ」
「分かってる。全部規子には話すようにするよ」
「ええ……」
久しぶりに三人揃って食べる夕食だったというのに、あまりいい雰囲気にならなかった。
三人揃ってといっても、本当の家族では無かった事を猪田は確信していた――。
「お帰りなさい。今日は早かったのね」
「ああ、仕事に集中できなくてな。残ってやったところで、さほど進まないだろうから」
「そうなの。大変ね」
「……まあな」
一時間だけ残業をした猪田は、寄り道もせずにまっすぐ家に帰った。
普段よりも随分と早い帰宅だ。
「お帰りなさい、お父さん」
「ああ、ただいま。由菜、昨日は……」
「いいよ別に。来月バイト代が入ってから買うから」
「すまなかったな、怒鳴ったりして。父さん、ちょっと会社の事で色々あってな」
「ふ〜ん、そうなんだ。会社、辞めるなんて言わないでよ。私達、食べていけなくなるからね」
由菜は笑いながら自分の部屋に戻っていった。
猪田は由菜の笑顔を見てホッとしたのか、疲れた頬が緩んだ。
「今日は先にご飯食べる?あなた、あまり早く帰ってこないから三人で食べるのは久しぶりでしょ」
「……そうだな。先に食べるか」
「それじゃ、準備するわね」
「ああ」
キッチンに戻る規子の後姿をしばし眺めた猪田は、スーツの上着と鞄を寝室に仕舞うとリビングのソファーに腰掛けた。
「今日のおかずは?」
「焼き魚よ」
「そうか。由菜はあまり好きじゃなかったな」
「ちゃんと魚も食べさせないと」
「そうだな」
しばらくすると、キッチンテーブルの上に夕食が並んだ。
「由菜、ご飯が出来たわよ」
規子の声に、由菜が部屋から出てきた。
「今日のご飯、何?」
「焼き魚よ」
「そうなんだ」
「残さないで食べてよ。いつも一口しか食べないんだから」
「……うん、大丈夫」
由菜は皿の上でこんがりと焼けた魚を見て、いつものように嫌な顔はせず椅子に座った。
「由菜。そこはお父さんの席でしょ」
「あ、そっか。ごめんねお父さん」
「いや、構わないさ。箸だけ交換してくれれば」
猪田は由菜の前にある黒い箸を取ると、いつも由菜が使っている白い箸と交換した。
「じゃあ食べようか」
「いただきます」
「いただきます」
三人が席に座り、夕食を食べ始めた。
「今日の学校はどうだった?」
「えっ。うん、別に」
「面白い事とか無かったのか?」
「そうだね。特に無かったよ」
「そうか」
久しぶりに三人揃った夕食だったが、あまり会話は進まなかった。
最近は仕事で遅くなることが多かったので、家族に溝が出来てしまったのかもしれない。
そんな風に思った。
「携帯、買い換えたいのか?」
「え?」
「昨日言ってた話だよ」
「えっと……。携帯って?」
「……お前が買い換えたいって言ってたんだろ」
「そ、そうだっけ?ははは……」
「それに……」
猪田は由菜から視線を落とした。
「お前、魚が食べられるようになったのか?」
由菜の皿に乗っていた魚が殆ど骨だけになっているのを見た猪田は、妙な胸騒ぎを覚えた。
「あ、うん。今日の魚は美味しかったよ、お母さん」
「そう。いつもそれくらい綺麗に食べてくれたらね」
「……そうだね。でもそれはお父さん次第かな?」
「どういうこと?」
「さあ。ねえ、お父さんっ!」
軽くウィンクして笑いかけてきた由菜と視線が合った瞬間、猪田の顔から血の気が引いた。
目の前にいる由菜は――。
「お、お父さん次第って、どういう事か分からないな」
「お父さんが私との約束を守ってくれないなら……クスッ、このままの私でいてあげるって事」
「このままの私でいてあげるって?」
「毎日焼き魚が出ても、全部食べるよ。私の言っている意味、分かるでしょ」
「…………」
まさか――ずっと由菜の体を乗っ取るつもりなのか?
しかし、あの薬は五時間程度しか憑依出来ないはず。
「お父さんの考えている事を当ててあげようか?心配しなくてもいいよ。幾らでも手に入るから」
「なっ……」
「折角三人揃っているんだから、全部話しちゃえば?」
「話すって?何か秘密にしていることがあるの?」
規子が二人の話に割り込んできた。
「い、いや。別に何も無いんだ」
「ふ〜ん、そうなんだ。お父さん、何も話すこと無いんだ」
由菜がわざとらしく下腹部を撫でている。
「由菜、お腹が痛いの?」
その仕草を見て、規子がたずねた。
「ううん、ねえお母さん。実はね、私……妊娠しちゃったんだ」
「えっ!?」
いきなりの告白に、規子は持っていた箸を落としてしまった。
「……な〜んてね!冗談よ、冗談」
「ゆ、由菜っ!冗談にもほどがあるわよっ」
「ごめんね。ちょっとお父さんを驚かせようと思って」
可愛らしく舌を出した由菜を見て、猪田の額から嫌な汗が滲み出た。
もしかしたら、本当に妊娠しているのか?
妊娠させられてしまったのか?
「ゆ、由菜。お前……本当に冗談だよな」
「……そうだね、冗談だよ。今は」
「…………」
「だって、私もいつか好きな人と結婚したら子供が欲しいもん」
「もう。二度とそんな冗談は言わないで。分かった?」
「うん。分かったよお母さん」
猪田は気が気でなかった。
いつ由菜を妊娠させられるか分からない。
あまりにリスクが大きすぎる。
もう告白するしかない。
しかし――。
「……ねえってば!」
「……えっ?」
「もうっ!さっきから何度も呼んでるのに」
「あ、ああ。すまない。考え事をしていたんだ。な、何だ?」
「食事のときくらい考え事はやめてよね。私、先にお風呂に入るから」
「そ、そうか。別に構わないよ」
「じゃ、ご馳走様」
「ご馳走様」
由菜は食器を流し台に片付けると、自分の部屋に戻っていった。
「あなた。私に何か隠し事をしているの?」
「いや、何もしていないよ」
「でも、由菜が……」
「ああ……そうだな。実は携帯電話を買い換える金を貸してやろうと思って」
「……そうなの。それだけ?」
「そうだ。それだけだ」
「……それならいいんだけど。隠し事は嫌よ」
「分かってる。全部規子には話すようにするよ」
「ええ……」
久しぶりに三人揃って食べる夕食だったというのに、あまりいい雰囲気にならなかった。
三人揃ってといっても、本当の家族では無かった事を猪田は確信していた――。
コメント
コメント一覧 (2)
何故と言って、もし私が憑依能力を得たならば同じ事をするだろうし、(生でするのはさすがにマズイと思いますが)初の憑依が成功したことに浮かれていた気持ちもよく分かります。
しかし…何か引っかかるんですよね…。
おっと、これは聞かなかった事にして下さいw
本格的に寒くなってきました。
外から帰ってきたら、うがい&手洗いで風邪などから身を守りましょう。かなり効果があるそうな。
読んでいただき、ありがとうございます。
私も彼のようになるのは嫌ですよ(^^
このままでは妻や娘にまで危害が及ぶ可能性がありますから。
大体ラストまでの展開が頭の中で固まりつつあります。
ちょっと長くなっていますが、もうしばらくお付き合いくださいませ(^^;
小学校や幼稚園では休んでいる子供が多いようですね。
会社でも体調を崩して休んでいる人がいます。
うがいは効果がありますね。
私も帰ったらうがい、手洗いを励行したいと思います。