裕子は動揺していた。
まさかこんな状況になるとは思っていなかったのだ。
新婚生活が始まって数ヶ月。
「新築マンションに招いてくれよ」という職場の同僚、沖村治宮(おきむらじぐう)を断り切れなかった。
断りきれなかったと言うのは、彼のことがまだ好きだからと言うわけではない。
沖村が尋常ではない方法で、強引にマンションへ入り込んできたからだ。
裕子の目の前にいるはずなのだが、その姿は見えない。
裕子でなくても、普通の人間なら沖村の姿を捉えることが出来ないのだ。
それは彼がある薬を使って【透明人間】になっているから。
裕子はリビングキッチンで、目に見えない相手と会話をしているのであった。
裕子はコンパで知り合った内塔鎮男と結婚した。
二十五歳の裕子に対し、鎮男は三つ年上の二十八歳。
お互いに一目惚れし、付き合い始めて三ヶ月というスピード結婚だった。
鎮男は小さな歯科を経営していて、どちらかと言うと裕福。
幸せな生活を手に入れた裕子だが、職場で親しい仲だった沖村が結婚後も言い寄って来ていたのだ。

何度も断り続けたある日の会社帰り。
裕子と鎮男が住む新築マンションに続く細い道は、夕焼け空が沈んで薄暗くなっていた。
女性が一人で歩くには少し心細く感じる道で声を掛けられた裕子は、一瞬体を硬直させた。

「お、沖村君……」
「やあ。今、帰るところ?」
「待ち伏せしていたの?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」

紺色のスーツ姿。
右手には鞄を、左手には何やら怪しい薬のようなものを手にしていた。

「沖村君の家は全然違う方向でしょ。私に何か用なの?」
「今日こそマンションへ入らせてもらおうと思ってさ」
「だからいつも断っているでしょ。私はもう結婚したんだからダメなの」
「それはどうかな?」

沖村は手に持っていたカプセルを口に含み、水も飲まずに喉に押し込んだ。
すると、スーツ姿の沖村の体が徐々に透けてゆく。

「えっ!?」

裕子は目を疑った。
おそらく三十秒とは経っていないだろう。
目の前に沖村の姿はなく、服だけが浮いているように見えた。

「ちょ、ちょっと……。お、沖村君!?」
(驚いただろ。今飲んだのは透明人間になる薬なんだ)
「う、嘘……でしょ」
(嘘でしょって、俺の姿は見えなくなっただろ?)

空中から声が聞こえる。
そして、服が自然に動き始めた。
スーツが脱げ、地面に置かれていた鞄に入ってゆく。
同じようにズボンやカッターシャツ、そして下着や靴までもが、まるで意思を持っているかのように動き、鞄に入っていった。

(これで完全に見えなくなっただろ?)
「し、信じられない……。こ、こんなことって……」
(あとは鞄を隠せば俺が何処にいるのか分からない)

透明な体になった沖村は、歩道の横にある生い茂った草むらの中に鞄を隠した。

「お、沖村君っ。何処にいるの?」
(ここだよ)
「きゃっ!」

不意に後ろから声を掛けられ、裕子は驚いた。

(この姿ならば誰も気づかない)
「ちょ、ちょっと待ってよ。だからといってマンションには入れないわよ」
(いいさ、勝手に入るから)
「ダ、ダメッ!」

危険を感じたのか、裕子は慌てて走り始めた。
見えない沖村に追いかけられているようで怖い。
それでも必死に走ると、エレベーターを使わずに五階にある自分の家に飛び込んだ。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

息が上がって苦しい。しかし、沖村から逃れることが出来た。
そう思っていたのだが――。

(ははは。結構足が速いんだな)
「ひっ!」

裕子の後ろから沖村の声が聞こえたのだ。

(足が速くても、女性の裕子に負けるはずないじゃないか。ようやくマンションに入ることが出来たよ)
「そ、そんな……」
(綺麗なマンションだな。確か結婚相手は医者だったよな)
「ダメ。お願いだから出て行って。もうすぐ鎮男が帰ってくるんだから」
(いいだろ、旦那には見えないんだから)
「絶対にばれるに決まってるわ。見つかったら私達は……」
(だから見つからないようにするって)
「ダメなのっ。さっきメールが入ったのよ。もうすぐ鎮男が帰ってくるから早く出て行って」
(つれないこと言うなよ。そうだ、逆にわざとばれるってのもいいかもしれないな)
「な、何考えてるのよっ。私は今、幸せなんだからっ」
(それじゃあ俺にもその幸せを少しくらい分けてくれてもいいじゃないか)
「だからダメなのっ」

ピンポーン

「あっ……」
「帰ってきたみたいだな」
「そ、そんな……。気づかれないように帰ってよ。絶対にダメなんだから」
「鎮男君には、まるで独り言を言っているようにしか聞こえないぞ」
「だ、だから……」

ピンポーン

「は、はいっ」

裕子はやむを得ず玄関の扉を開いた。