琢馬:「大丈夫かよ……もう意識が戻らないんじゃないだろうな」

かなり心配しているようだ。
それを空中で聞いている幽体の愛美。

……ちょっと待ってよ。ええと……たしかグランドで練習を見ていたんだよね。
……で、急にグラッとして目の前が真っ暗になったんだ。ああっ……そうか!
……平石先輩の打ったボールが頭に当っちゃったんだ。私って間抜けだわ……。

自分がどうして保健室に来ているか、やっと分かった愛美。

……でも、今、私はどうなっているの?
……目の前の私は……私よね。でも、こうやっている私も私……。

そう思いながら、俯いて今の自分を見てみる。
なぜか宙に浮いていて、身体が透けて見えているのだ。

……えっ!うそっ。

周りをキョロキョロと見回してみて、初めていつもよりずいぶん視線が高いことに気付く。
……う、浮いてる……の?

何となく歩いてみる……が、歩くという感覚をひとつも感じられない。
単に風に吹かれて横移動しているだけのようだ。

……も、もしかして……私、幽霊になっちゃった……の???

そんな感じがした。自分が二人いるのはおかしいのだ。

……ど、どうしよう。私、死んじゃったってこと?

そう思い込むのも無理はなかった。
しかし、ベッドで寝ている愛美はスースーと寝息を立てている。
幽体となった愛美は、それにも気付いていないようだ。
不安と恐怖感がよぎる。

……そ、そんなぁ。う、うそでしょ。

目の前で座っている平石先輩の後姿を見て、ジワッと涙が込み上げてきた。

……や、やだ……せ、先輩。た、助けて!

助けを求めるかのように、愛美は琢馬の背中に抱きつこうとした。

しかし――。


琢馬:「うっ!」

琢馬の身体が急に硬直し、苦しそうな表情を浮かべる。
ベッドで寝ている愛美の頭部に添えていたタオルをギュッと握り締め、目を見開いた。

琢馬:「あぐっ!ががが……」

声にならない悲鳴を上げる琢馬。
しばらく苦しそうな表情を続けたあと気を失ったかのように力が抜け、上半身がベッドの上に倒れこんだのだ。

ほんのしばらくして――。

琢馬:「……う、ううん」

布団に顔が埋れている琢馬が小さなうめき声をあげて目を覚ます。

琢馬:「う……んん……」

ゆっくりと顔を上げる琢馬。
目の前の布団が盛り上がっていて、その向こうには壁が見える。
更に身体を起こすと、ベッド全体を見る事が出来、そのベッドには愛美が寝ている事が分かった。

琢馬:「……えっと……」

琢馬の右手はタオルを握ったまま、寝ている愛美の頭部に添えられている。

琢馬:「……ん……えっ?!」

琢馬が驚いた表情を見せ、握っていたタオルを放した。
そこに、保健室の先生が戻って来た。
ハッとして先生の方を見る。

先生:「どう?彼女の様子は。変わった事無かった?」
琢馬:「……あ……」
先生:「何かあったの?」
琢馬:「あ、せ……先生……」
先生:「ふ〜ん。どうやら大丈夫みたいね。かわいい寝息を立てて眠ってるじゃない。多分気絶しているだけだろうから、このまま寝かしておいて上げれば大丈夫よ。ボールが当ったところもそれほど膨れてないみたいだしね」

先生の話を聞いている琢馬は、おろおろしながら自分の身体を何度も見ている。

先生:「後は先生に任せて部活に戻っていいわよ。まだ練習してるんでしょ」
琢馬:「……えっ」
先生:「それとも彼女の側にいたいの?」

先生は笑いながら琢馬をからかった。

琢馬:「あ、あの……わ、わたし……」
先生:「あんまり遅かったらみんなにからかわれるわよ。さっ、もう行きなさい」

先生は琢馬の肩をポンと叩くと、部屋の反対側に置いてある机の椅子に腰掛けてなにやら本を読み出した。
琢馬はまだおろおろしながら、しかし、どうする事も出来ず、ただ椅子から立ち上がり保健室を後にしたのだった。

保健室のドアを閉めたあと――。


琢馬:「……ど、どうなってるの?どうして私が平石先輩に……」

保健室のドアを背に、琢馬に乗り移ってしまった愛美が呆然としている。

一体どうしてこんな事になってしまったのか?
どうしていいのか分からない琢馬(愛美)は、先生や他の生徒に見つからないように無意識に廊下を走り出した。
スパイクの爪が廊下をガチガチと鳴らしている。
両腕を横に振り、少し内股で走る琢馬(愛美)。

琢馬(愛美):「はぁっ!はぁっ!はぁっ!」

頭に被っていた帽子が脱げようとするのを手で押えながら、ガラリとドアを開けて入り込んだのは、野球部が使っている更衣室だった。

琢馬(愛美):「はあ、はあ……はあ」

息を切らせながら、部屋の中を見渡す。
いつもユニフォームを取りに着ているので、見慣れた部屋だ。
すこし汗臭い空気を吸い込みながら、呼吸を整える。
心臓がドキドキと大きく脈打つ。
これは、きっと走ったからではなく、愛美自身が緊張しているせいなのだろう。

大好きな先輩の姿になっている……。

愛美は、死んでしまったかもしれないという恐怖感が、だんだんと薄れているのに気がついていた。まだ心臓がドキドキしているのを感じつつ、ロッカーが並んでいる奥、素振り用の大きな鏡に向かって歩いてゆく。カツッ、カツッ、とスパイクの爪を鳴らしながら……。

鏡の中に映っている琢馬の姿が徐々に大きくなり、鏡の前に着いたときには等身大の大きさになっていた。

琢馬(愛美):「……先輩……」

心の中で、そうつぶやく。
鏡の中に映っている琢馬は、愛美の目をじっと見つめている。
その視線にまたドキドキしてしまう。
今までこんなに見つめ合った事がないのだから。

琢馬(愛美):「あ……あの……」

琢馬の低い声で話し始める……が、そこから何をしゃべっていいのか分からない。
とりあえず、両手を目の前にゆっくりと移動する。
琢馬の大きくてゴツゴツした手。
右手には豆が潰れたあとが幾つもあった。
それは、愛美の白くてスベスベした手とは明らかに違っている。
爪の奥に土が詰まっていて汚いと思ったが、この手は大好きな「平石 琢馬」の手なのだ。

琢馬(愛美):「これが……平石先輩の手……」

両手をまじまじと眺めた愛美は、その手で両頬を触ってみた。
汗をかいて脂ぎった顔。
ヌルッとして生温かい。
愛美は、かぶっていた帽子を頭からゆっくりと取った。
髪を短く切り、さわやかな雰囲気だ。
帽子の中で湿気を帯びていた髪が空気に触れて涼しく感じる。
愛美は試しに、額に光る汗を右腕で拭取ってみた。
それは、グランドでいつも琢馬がしている仕草。
今、その仕草を愛美が「させている」のだ。

琢馬(愛美):「はぁ、はぁ」

息が乱れたままだ。
自然と手に汗がにじみ出てくる。
鏡の中の琢馬は、愛美が視線を合わせるたびに、確実に見つめなおすのだ。
いつまでも見つめつづけられている感覚……。
こんなに興奮したことはこれまで一度も無い。


音楽会で発表する時だって……。
高校入試の時だって……。
初めて告白された時だって……。

そんなものは、今の興奮に比べれば皆無に等しかった。
それほ衝撃的なこの現実は、愛美の心を震撼(しんかん)させているのだ。

琢馬(愛美):「はぁ、はぁ。わ、わたし……」

初めて自分の声が、琢馬の声であることを意識する。
いつも聞いている声とは少し違うような……。
でも、この低い男の声は、確実に琢馬のものなのだ。

目で見て、耳で聞く……。

愛美は、自分が琢馬になっていると言う事を更に確信する。

ゴクン……。

琢馬(愛美):「わたし、本当に先輩になってる」

今の現実を全て認識した愛美。

琢馬(愛美):「先輩……」

この身体が愛しい。

憧れの平石先輩の身体・・・
その身体を、今、自分で動かしているのだ。
なんという運命なのだろう・・・


こんな現実が――。
こんな現実が―― 。
……目の前で起こっているのだ!

愛美の心は舞い上がった。
嬉しいという気持ちが加速度的にこみ上げてくる。
今なら琢馬の身体の事、何だって分かるのだ。
琢馬を好きな女子高生は何人もいるだろう。
もしかしたら、告白した女の子だっているのかもしれない。
琢馬には、もう彼女と呼べる人もいるのかもしれない。

でも……。

琢馬のことを誰よりも知り得るのは、愛美なのだ。