「お帰りなさい、あなた」
「ああ、ただいま」
「どうしたの?顔色が悪いわね」
「……ちょっと疲れてな」
「先にお風呂に入る?」
「そうだな」
妻の規子(のりこ)は心配そうに猪田の背中を見ていた。
今日はやけに小さく見える。そんな気がした。


「ねえお父さんっ。新しい携帯に買い換えたいんだけどお金貸してくれない?」
風呂から上がり、夕食をとる猪田に高校二年生の娘、由菜が強請って来た。
「お父さん、ねえってば」
「ちょっと待ってくれよ。今、考え事をしているんだから」
「いいじゃない、一万円だけ。ねっ!来月のバイト代で返すからっ」
「待てって言ってるだろっ、由菜っ!」
「……な、何よ。そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。もういいよっ!」
「あ……」
しまったと思っても後の祭り。
由菜は怒って自分の部屋に戻ってしまった。
「あなた、会社で何かあったの?」
「あ、いや……。何でもないんだ」
「具合が悪いならお薬出しましょうか」
「別に体調が悪いわけじゃないから。大丈夫だ」
「それならいいんだけど」
愛娘を怒鳴るだなんて、よほどの事があったのだろう。
規子はそれ以上、無理には話しかけなかった――。

「はぁ〜」
食事を終えた猪田は一人寝室でベッドに腰掛けると、大きくため息をついた。
突然訪れた家族崩壊の危機。
もちろん自分が巻いた種なのだが、まさかこんな展開になるなんて思ってもみなかったのだ。
とある友人の知り合いから一錠分けてもらった薬。
ちょっと楽しもうと思っただけなのに。
まさか、部下の志乃理が自分の子供を妊娠していたとは。
それだけではなく、自分の仕業だということまで知られてしまった。
もう志乃理から逃げることは出来ないのだ。
「はぁ〜」
猪田は、またため息をついた。
どうやって規子と由菜に話そう。
部下の女性を孕ませたので責任を取らなくなった。すまんが別れてくれ……なんて言える筈が無い。しかし、言わなければ規子と由菜に別の被害が起きてしまうかもしれない。
選択肢が無い状態に、猪田は苦悩した。
「ねえ、あなた」
「……規子か」
「大丈夫?」
「ああ。ちょっと疲れただけだ。はぁ〜」
夕飯の片づけを終えた規子が、心配そうな表情で寝室に入ってきた。
「本当に大丈夫なの?」
「そうだな。今のところは大丈夫だ」
「今のところは?」
「……ああ」
猪田の横に腰掛けた規子は、そっと猪田の太ももに手を添えた。
「悩み事があるなら何でも言ってね。私でよければ相談に乗るから」
「……規子」
妻の優しさが心に染みる。
そう思い、俯いていた猪田が顔を上げると、心配そうに見つめていた規子がクスッと笑った。
「そんなに悩まなくてもいいんじゃないですか?」
「えっ……」
「正直に話せばいいだけですよ。俺は部下の屋河志乃理を愛している。子供を妊娠させたから別れてくれって」
「なっ。どうしてそれをっ!」
「分からないですか?課長」
「か、課長って……も、もしかして……」
「ふふふ。簡単ですね、他人の体に乗り移るのって」
規子は驚いている猪田を見ながらクスクスと笑った。
「お、屋河なのかっ」
「そうですよ」
「い、いつから……」
「奥さんがキッチンで洗い物を済ませた後に乗り移りましたから、寝室に入ってきた時にはすでに乗り移っていましたよ。どうです?私の演技。奥さんにしか思えなかったでしょ!」
「…………」
「課長もこうやって私に乗り移って、私を妊娠させたんですね」
「そ、それは……」
「私の体、気持ちよかったですか?」
「そんな事……」
「聞いたことがありますよ。女性の体は男性の体よりも随分と気持ちいいって」
「…………」
「ふふ。別に構いませんよ。私と課長が一つになったんですから。それよりも早く奥さんとお嬢さんに話して下さいよ」
規子の体を奪った志乃理は、規子に似合わない敬語を使って猪田を翻弄させた。
「ま、待ってくれ。心の準備が全く出来ないんだ」
「練習します?私がさっきみたいに奥さんの真似事をしてあげますよ」
「そ、そんな事をしても意味が無いだろ」
「そうですか?早く言ってくれないと、私……」
規子は意地悪そうな表情をすると、両手を頭の後ろに回して悩ましげなポーズをとった。
「こんな風にして奥さんの体で見知らぬ男性を誘惑しちゃいますよ」
「お、おいっ……」
「ねえあなた。私、覚悟が出来ているわ。だから素直に言って頂戴」
今度は真剣な表情で規子の口調を真似している。
「た、頼むからよしてくれよっ」
「……仕方ないわね。今日のところは許してあげるわ。でも近いうちに私とお嬢……由菜に話して。分かった?」
「……ああ」
「うふ!今日のところは帰ります。また来ますから」
急に雰囲気が変わった規子は、猪田の頬にフレンチキスをするとフッと気を失ってしまった。
「の、規子っ」
倒れそうになったところを支えてやると、規子がゆっくりと目を覚ました。
「あ、あれ?あなた……」
「大丈夫か?」
「え、ええ。わ……私、どうして寝室に?」
「お前も疲れているんだな。今日は早く寝よう」
「……え、ええ。でも……」
規子は状況がよく飲み込めていないようだったが、猪田に促されると首をかしげながらも寝室を出て行った。
「はぁ〜。まさか規子に乗り移って現れるなんて。屋河は本気なのか……」
本気であることは十分承知していたのだが、こうやって実際に妻の体を乗っ取られると恐ろしくなる。
当時、モデルをしていた規子にしつこいほどアタックし、結婚までこぎつけた程の美人だった妻。
三十歳後半になった今でも未婚だといって誘えば、大概の男は寄ってくるだろう。
いや、既婚だと言っても同じかもしれない。
「くそ……。俺はどうすればいいんだ」
猪田は頭を抱えるしかなかった――。