「髪の毛ボサボサだよ。今起きたとこなの?」

 何も知らない香奈が、美穂に乗り移っている勉に話し掛けてくる。勉はどういう風に答えていいものか戸惑った。

「もうすぐ時間だよ。早く用意しないとマネージャーの田中さんに怒られるからね」
「……あ……うん……」

 とりあえず返事をする。香奈も化粧はしていなかったが、既に準備は出来ているようだった。準備と言っても何をすればいいのか分からない。
 香奈が肩からボストンバッグを掛けているところを見ると、もう部屋の荷物を纏め終わったのだろう。

「ちょ、ちょっと待ってて」

 美穂の声で返事をすると、とりあえず靴下を穿き直してボストンバッグのファスナーを閉めた。忘れ物は無さそうだし、準備と言ってもこれ以上何も出来ない。ドアの前に置いてあった赤いスニーカーを履くと、香奈に向かって「お待たせ」と笑顔を見せた。

「ほら、髪の毛が……」

 香奈が勉の……いや、美穂の短い茶色の髪を手ぐしで解いてくれる。勉は何も言わないまま、彼女の顔をじっと見ていた。当たり前だが、これだけ間近で香奈の顔を見るのは始めて。テレビで見るよりよほど可愛く思えた。

「これでいいよ。下でマネージャーが待っているから急ごっ」

 香奈がエレベーターのある方に歩き出す。

「うん……」

 勉は香奈に悟られないよう、少し離れてついて行った。

「昨日はよく眠れた?」

 エレベーターの中、香奈が話し掛けてくる。

「うん。眠れた……よ」

 勉はテレビで話していた美穂の口調を思い出しながら答えた。きっとこんな感じだろうと思いながら。

「昨日は立ちっ放しだったから疲れたね。今日は昨日よりマシだと思うけど。あ〜あ、今年の正月はおばあちゃんの家に行きたかったなぁ」

 そんな事を言われても、何の事だかさっぱり分からない。
 勉は曖昧な返事をしながら、香奈の話を聞き流していた……。





「お、来たな。五分遅刻だぞ」
「ごめんなさい。ちょっと寝坊しちゃって」

 マネージャーらしき男性に、香奈が答えている。
 香奈の言い方は、まるで勉をかばっているようだ。
 香奈ちゃんって結構いい子なんだと思った勉は、マネージャーの顔を眺めた。
 歳は三十代半ばくらいか。あっさりとした顔つきの男性は、グレーのスーツに身を包み、片手にビジネスバッグを持っていた。

「田中さん、今日は松島スタジオですよね」
「ああそうだよ。昨日のようなハードスケジュールじゃないから安心してくれよ」
「よかったぁ。昨日は大変だったよね、美穂」

 不意に話をふられてギョッとする。

「あ、うん……た、大変だったね」

 また曖昧な返事をした勉。先ほどから会話の続かない美穂を不思議に思った香奈。

「どうしたの?身体の調子でも悪いの?」

 心配そうな表情で勉を見つめている。それを聞いた田中というマネージャーも心配そうだ。

「そ、そんなこと無い。大丈夫よ」

 勉は両手を広げて身体の前で左右に振り、美穂の顔で微笑んで見せた。

「そうか、大丈夫ならいいんだけどな。結構無理させているから、そろそろ限界かなって思ってるんだ」

 田中が優しい表情で勉を見る。そんな田中に、勉は俯いて目を反らせた。

「車を外に待たせているんだ。メイクさん達も乗ってるから移動しながら支度してくれるかい?」
「うん。分かったわ」

香奈が返事をする。勉はコクンと肯いただけで何も言わないまま、二人の後をついて行った……。